因果関係試論

因果関係試論

昭和31年(1956年)ころ,水俣に宝子と呼ばれる子どもたちが誕生した。

宝子たちは,その後,①有機水銀説の確立及び②胎盤が必ずしも毒物バリアとはならないという医学的所見の確立によって,胎児性水俣病と呼ばれるようになった。

宝子たちは,医学的所見①及び②の確立によって,胎児性水俣病となったのではない。

昭和31年頃から現在に至るまで,宝子であり,胎児性水俣病である。

医学的所見の確立によって,胎児性水俣病となったのではない。

脳腫瘍について,現在に至るまで,遺伝子情報の変異といった程度しか原因は判明していない。

だが,その原因が判明しなくとも,脳腫瘍なのである。

将来,その原因について,医学的所見が判明し,確立しようが否かとは無関係に,脳腫瘍である。

そして,脳腫瘍という病名のまま死亡しようとも,将来においては,その原因@が解明される可能性を否定できない。

そうすると,この患者は,脳腫瘍に罹患してから現在に至るまで脳腫瘍であり,原因@が解明されたならば,延命できた可能性を否定できない。

現在における医学的所見が,あたかも胎児性水俣病における原因①及び②を発見出来ないのと同様であるとしても,この患者の過去及び現在を通じて,原因@が除去されれば,脳腫瘍が治癒された可能性を否定できない。

pなければqなしという条件関係について,原因pが明らかにならない場合は,上記水俣における宝子のようにあり得る。

そして,医学的所見①及び②の確立によって,これが原因pであることが明らかになったものである。

因果関係論とは,極めて常識的な判断であり,それで足りるのではなかろうか。

原爆症訴訟において,高度な蓋然性説といってみたところで,放射能を含んだチリは,半径2キロを越えて飛び散るという常識論に劣後するというべきではなかろうか。

脳腫瘍にとって,いじめというストレスが,その悪化要因であるという常識論を何故受け入れることが出来ないのであろうか。

現在脳腫瘍の原因が確立していないとしても,「およそ病気について,ストレスが憎悪要因である。」という認識を有し得ないのであろうか。

正確に表現すると,長崎原爆症訴訟(松谷訴訟)最高裁判所判例は,しきい値論及びDS86という科学的知見によらず,脱毛という極めて常識的な判断に依拠しているとも評価出来るのである。

科学的認定ではなく常識論であると評価することが十分に可能である。