思考の残滓
思考の残滓
戦前と違い,憲法が天皇に国民統合の能動的な役割を求めているわけではないのだから,統合機能を積極的に果たすために天皇が公的行為を行う必要はない。
過重ならばやる必要のない公的行為はやめればよく,国事行為ができないなら,今ある臨時代行の制度を使えばよい。
TITLE:(天皇退位への提言:3)なすべき仕事の整理を 横田耕一氏:朝日新聞デジタル
URL:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12719319.html
天皇の行為を,国事行為,公的行為,私的行為に三分類するのが我らが学んだ40年余り以前の憲法学通説であった。
だが,公的行為否定論もあり得る。手元にある「高橋和之著・立憲主義と日本国憲法」46ページも,天皇の公的行為を国事行為に限定するという立場である。
横田九州大学名誉教授は,上記公的行為否定説に立脚し,「多くの国民が,憲法上必要のない公的行為を象徴天皇の役割と捉えているということは,戦後の象徴天皇像はいまだに確立していないということではないか。」と立論される。
我らが思考の残滓を払拭された思いである。
マルコにはイエス誕生物語がない
マルコにはイエス誕生物語はありません。
マルコにとって,ガリラヤに生きたイエスを描ききることが全てであったからでしょう。
これに対し,マタイやルカは,旧約というユダヤ民族絶対主義の経典が実現された証としてのイエス誕生物語を描きます(マタイ2:6など)。
マタイの場合は,天上の王者キリストの生誕物語であり,東方の占星学者らが黄金と乳香と没薬という贈物を献上し,イエスの誕生を祝福します(マタイ2:11など)。
これに対し,ルカの場合は詩的に美しい。旅籠の中ではなく,飼い葉桶の中に横たえられた幼子を羊飼いらが祝福します(ルカ2:16など)。
どちらが正しいという性質の問題ではなく,マタイやルカそれぞれが属した教団に伝えられた伝承とその解釈の違いが現れたのだと考えております。
思い煩うな
何を思い煩うことがあろうか
地を這い回るアリを見よ
働かぬアリがいるからこそ
種が永続しているではないか
戦後レジームからの脱却
民主主義は,ふたたび危険思想となるのか
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
2017年元日の朝日新聞一面トップは,ゴーギャンの,この作品を引用して始まりました。
民主主義が危険思想と意識された(少なくとも,自由主義の敵対概念)時代がありました。
民主主義は,「頭を叩き割るよりも,頭数を数えた方がましである。」とする独裁との対立概念としての意味しか無いのでしょうか。
朝日からの引用です。
「作られた多数派」に,少数派が従わなければならないとしたら。
今また,民主主義は「危険思想」になりつつあるのだろうか。
我らが価値相対主義を唱える間に,ポピュリズムは人々の感情を支配する。
これに対抗する,戦う民主主義の原理とは,いかなる価値原理なのでしょうか。
2017年年頭の課題としてゴーギャンを受け止めました。