投票行動
棄権の自由はあり得るのだろうか。
それは飢えて死ぬ自由と全く均しい意味においてあり得るのだろうか。
飢えて死ぬ自由として,我が国には,五穀断ちをして即身仏となるという実例もあるところだが,我ら衆愚には及ばぬ境地であろう。
TITLE:衆院選投票率52.66%戦後最低更新 NHKニュース
URL:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141215/t10013979451000.html
支持政党なしが投票行動を起こさない理由であるならば,全く支持しないどころか嫌悪する政党だが批判勢力であるという理由のみで投票する自由もあり得るところである。
降雪や悪天候が影響しているようにも思われるが,確かに権力という暴力装置は,飢饉や津波などの自然災害と同様に,人為では如何ともし難いという達観した立場からも,投票行動を起こすか否かは各人の自由であるという立場があり得る。
ある民放が投票場所までの距離と投票率との因果関係を報じていたが,なるほど遠方だから投票しないという立場もあり得る。日常生活やせわしない師走の休日を犠牲にしてまで,選挙に時間を使いたくないというこれまた達観あるいは諦めの境地から,投票をするもしないも自由という立場はあり得る。
さらには自分一人が投票してもしないでも結果は変わらないという,これまたニヒリズムが蔓延しているようにも思える。
他国では,投票義務制さらには罰則その他ペナルティ付き投票義務制を課しているが,我が国では,投票をするもしないも自由である。
ところで,明治期においては,納税額による制限選挙が実施され,戦後になってようやく婦人参政権が認められた。
普通選挙の施行から,未だ70年も経過していないが,この歳月で選挙権は空気のようなものと意識されるようになったのであろうか。
空気を吸わない自由,つまり自律的意思によって呼吸を停止させて死ぬ自由はあり得るのであろうか。
古代ギリシャの哲人に,その例があると伝承されるも,確実な根拠は知らず,また真似をする考えもない。