信じることと語ること

信仰は,個人の根源的価値であり,価値評価されるべきではない。

では,「女性と男性を平等の地位に置くことはできない。自然の摂理に反している」との発言も同様であろうか。

TITLE:トルコ大統領、男女平等は「自然の摂理に反する」:朝日新聞デジタル

URL:http://digital.asahi.com/articles/ASGCT1W6BGCTUHBI003.html

イスラムに限らず,ユダヤ民族絶対主義に基づく旧約聖書を接ぎ木したキリスト教においても,イブはアダムのあばら骨から形成されたとされ,イブが知恵の実を食べたばかりにエデンの園から追放されたとされる。

別段,ジェンダー論を展開しようなどとは考えていない。

聖典なるものは,所詮,古文書であり,時代精神に制約されて書かれた古代伝承に過ぎないと述べている。

例えば福音書は,神の意志を福音書記者が受信して書き上げたなどとする学説は存在しない。

共観福音書については,一字一句研究され尽くしており,マルコ・マタイ・ルカそれぞれが属する教派の意図するところに基づいて書かれたことも実証済みである。

ファンダメンタリストを自称するのであれば,実践してごらんなさい(無理だけど)と言うしかない。

聖典に基づいて発言するというのであれば,「自分の理解による聖典解釈によれば」と前置きしてから発言することが,おそらくは正しいのであろうと思う。

「自分の理解する聖典解釈」というのであれば,神の権威を後ろ盾にしないだけマシだと思われるからである。

もう少し,細かな論点に立ち入り具体例を述べたい。例えば,マグダラのマリアについて,広く流布されているように売笑婦と考えようが,イエスの妻と考えようが(外典・儀典,最近ではダビンチ・コード)それは各自の自由だとするのが価値相対主義者の立ち位置である。

そして,私は福音書を読む限り,いずれの説にも根拠などまるでないと考えるだけのことである。