在ることと在るべきこと

ザイン【(ドイツ語)Sein:存在】とゾルレン【(ドイツ語)Sollen:存在するべきこと】

1975年春4月,大学入学の年に買い求めた法学セミナーの巻頭言がザインとゾルレンであった。

在ることと在るべきことと表現しても許されようか。

まさにサイゴン陥落(1975年4月30日)前の緊迫した状況の中で,この巻頭言を読んだ。

これから学ぶこととなる法律学とは,在るべきことを追い求める世界なのだなと理解した。

人を殺してはならないという在るべき世界を追い求めるのが刑法学・法律学なのであろう。

ヒトがヒトを殺すという事実の世界つまり存在の世界が在る。

これに対し,ひとたび人を殺したならば,「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」に処することによって,在るべきことを追い求める世界が在る。

この存在の世界と存在するべき世界とを峻別することが法律学の基本だと学び,それから40年の歳月が流れようとしている。

だが,在るべきことの世界を追い求める者は,2000年ほど前からの嫌われ者で在る。

共観福音書を一読すれば,律法学者なるものは,安息日問答などなどイエスからコテンパンにやっつけられている。

安息日は人間のためにあるのであって,人間が安息日のためにあるわけではない。」(マルコ2:27・以下,新約は全て田川健三訳)。

「律法学者に気をつけよ。彼らは正装して歩くことや,広場での挨拶を好む。また会堂の上席や食事の上座を好む。彼らはやもめの家々を食いつぶし,その言い訳に長々と祈る」(マルコ:12:38)。

「また汝ら法学者にも禍あれ。汝らは背負い難い荷物を人々に担わせる。しかも自分自身は指一本でもその荷物を担うことをしない。」(ルカ11:46)。

エスの律法学者に対する眼差しは厳しい。

律法学者に対し,このように言い放つ。「この者たちはより大きい裁きを受けるだろう。」(マルコ:12:40)。

律法学者らが考えるユダヤ教の正しい理解なるものあるいはユダヤ律法解釈としての正しい生き方=在るべきこと(ゾルレンの世界)を人々に押し付けることによって,将来待ち受けているのは,「大きい裁き」である。

ゲヘナの炎で永遠に焼かれ続ける律法学者の末路が見える気がする。